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小宮 ユキヨさん
足を痛めるまでは、お惣菜ひとつ買ったことがないほど料理や家事に勤しんでいた。
子供が幼いころから始めたという編み物や、ウィンドウショッピングが趣味。
当たり前の日常を失い絶望…
再び自分の足で歩けるようになる日を夢見て
足を引きずりながらご主人の看病をする日々が続いた
もともと出かけることや、ショッピングが大好きだという小宮さん。O脚だったことから、膝への負担がかかりやすく、右膝を痛めてしまった。当時通っていた病院で手術を受け快方へむかうも、右足をかばっていたためか、左足も痛めてしまい膝の関節手術を受けることに。しかしその左足は、手術後も違和感を感じたままだったという。
「最初の手術とは明らかに違い、左足は一向によくなる気配がありませんでした。手術後のリハビリも、とにかく痛かったことばかりが記憶に残っています。よくなっているという実感もなかったうえに、最後は《10 kg痩せれば治る》といわれました。見放されたようですごく悲しかったです」。
そして、足を伸ばすことさえもできないまま退院。
それからも、杖なしでは歩けない状態が続いたという。
「それからも自分の足を治してくれる病院を探し続けていたんですが、その最中に、突然主人が病に倒れてしまったんです。自分の足は命に関わることのほどじゃない、主人の看病に専念しよう、と決心しました」。
そこから、ご主人が入院されている病院と家との往復の生活が始まった。
「私の足を診てくれる整形外科は結局見つけられていない状態だったので、かかりつけの内科で痛み止めの内服薬と湿布をもらい、膝の痛みを紛らわしていました。杖がないとまったく歩けない状態で、ワンメーターの距離でもタクシーを使っていました」。
それでも、病院食が苦手なご主人のために、家で麺類など簡単な料理を作っては、病院に届けていた小宮さん。足は薬で痛みはごまかしても、実際にはパンパンに腫れ上がっていたという。
「主人の病院にいる間も、楽な姿勢を取らせてもらい、ずっと足をさすっていました。病院の先生たちからも心配されるほどでしたので、自分の強い気持ちだけでどうにか持っていた状態でした」。
看病が一段落してからは、疲れ果てて抜け殻のようになってしまい、足の治療どころか何も気力が湧かず、ただただボーッとするだけの日々が続いたという。ちょうど外の景色が見える部屋の定位置に腰掛け、そこから一歩も動かず、スズメや飛行機の往来を見ているうちに1日が終わる…。料理をする気さえも起こらなくなってしまっていたので、即席ですますことが多く、ゴミばかりがかさんでいたという。ゴミを出しにいくのもひと苦労。杖をついて辛そうにゴミ出しにいく小宮さんを見かねて、近所の人たちが助けてくれるようになったが、申し訳ないという気持ちから、それも断り続け、誰にも会わないように深夜にゴミ捨てに行っていたんだとか。
「気持ちが不調になると、どんどん体も不調になっていきました。ある日、いつものように椅子に腰掛けていると、いつの間にか失神し、目が覚めたら4時間が経っていたという出来事がありました。病院に行って調べても異常なし。介護疲れからによる体の不調だったんです」。
その時、小宮さんは「離れて暮らす娘や娘婿に、これ以上迷惑はかけられない」と、心を奮い立たせたのだという。
もう誰にも迷惑はかけられない…
絶対に自分の足で歩くんだ、と心に誓う
娘婿の後押しが福岡リハビリテーション病院(福リハ)との出会いに
つなげてくれた
そこからまた、病院探しが始まった。
「まず、娘婿が教えてくれた病院に行ってみました。そこで最初に先生から言われた言葉は『付き添いの方はいますか?』でした。とても1人で病院まで来れる状態ではないように見えたみたいです。そのくらい足はひどくなっていました」。
診察の結果、すぐに手術が必要だと告げたられたという。そうしないと、一生寝たきりになってしまうと。そこでは手術をすることができないということで、紹介状を書いてもらい紹介されたのが、福岡リハビリテーション病院だった。「整形外科とつくところにはすべて断られていたので、最後の砦でした。紹介状は書いてもらえましたが、それでも断られるんじゃないかという不安はありました」。
そして、福リハへの通院初日。やはり最初に「付き添いの方はいますか?」と尋ねられたという。
「いいえ、1人です。と答えると先生はすごく驚いてました。そして、藁にもすがる思いで『先生、私歩けるようになりたいです!』と、伝えました。そうすると先生は『大丈夫。必ず治してあげるからね』と言ってくださいました。本当に心からうれしかったです」。
その時、今までの不安な気持ちは一気に吹っ飛び、この先生なら大丈夫だ、と確信したんだそう。
そして無事に手術は終了。術後は、ベッドに仰向けに寝ることが鉄則だというが、小宮さんは脊柱管狭窄症を患っており仰向けに寝ることができなかった。そのため、麻酔が切れた途端腰が痛みだし、何度もナースコールを押すことになったのだという。「本当に申し訳ないという気持ちで、限界まで我慢したんですが、本当に腰が切れるように痛くて痛くて、看護師さんにさすってもらいました。そして、よくなったと思ってもまた5分もたたないうちに痛み出し、再びナースコールをおす…そんな時間が夕方から、明くる日の明け方まで続きました。それでも、看護師さんたちは何ひとつ嫌な顔をせず、ずっと声がけをしていただきながら、さすり続けてくれました。」と、涙ながらに話してくれた。
辛いリハビリを乗り越えた先にある未来を信じて
そして術後ほどなくして、リハビリが始まった。「私の体は、先生がちゃんと修理してくれた。ここから動かせるようになるかは自分次第だ」という気持ちから、1回も欠かさずにリハビリに参加したという小宮さん。手術を受ける前まで、1日ボーッとして過ごす日々が長く続いていたため、筋力は想像以上に衰えてしまっており、リハビリ生活はとても辛かったのだという。
「本当に痛くて痛くて辛かったけれど、それでも、先生がすごく一生懸命やってくださっているのが伝わってきたので、私も『なにくそ!』という思いでくらいついていきました。私も先生の一生懸命な気持に答えたかった。頑張った分成果も出るので、意欲的にリハビリに取り組むことができました」。
そして退院前には、自分の足で歩けるようになるまで回復したのだという。実際病院の外を歩く訓練では、駐車場のチェーンをまたいで歩くことができ、先生も小宮さん自身も、とても驚いたのだとか。
自分を甘やかさず退院後も続けた家でのリハビリ
退院後も、家でできる範囲の体操を続けているという小宮さん。病院から配布されたリハビリの資料をファイルにまとめたり、壁に貼ったり、様々な工夫をして自分を怠けさせないよう努力をしている。
「もう誰にも迷惑はけかたくないという気持ちはもちろん、歩けるようになったことで、気の持ちようが一変したんです。どんなことにも挑戦していきたいし、自分の体のためにできることは何でも試したいと思っています」。
小宮さんはリハビリ以外にも、勉強会に積極的に参加し、体操を教わったり、筋肉をつけるために必要な栄養素を学んだり、努力を怠らない。
「今は体重を増やさないように、先生たちから教わったことを家で復習しながら、食べるものにも気を使っています。油の代わりに、ナッツやごまで代用しよう…など、食べ物の栄養素を把握して、自分で組み立てられるようになってきました。そうして今は、自分に合う食事の仕方を見つけようとしているところです」。
そういう工夫を積み重ねているうちに、ほかにもいいことがあったんだそう。
「手術をする前は、血管年齢が自分の年齢よりも+10歳以上ありましたが、今は年相当のところまで来ました。頑張っていることが実際に結果として数字で表れると本当にうれしいです」という。
体が元気になり気持ちが元気になることが、色々なことに作用しいい相乗効果をもたらしているのだろう。今の小宮さんの頭の中は常にポジティブなことで溢れている。
「自分の足で歩けるようになることが夢だったので、今は勉強することもお出かけすることも楽しくて仕方がありません。この前なんて、バスと電車を乗り継いで太宰府天満宮までお参りに行っちゃいました。今までは車に乗せてもらって行くばっかりだったので、公共の乗り物を使って行くのは初体験。隣接する九州国立博物館にも行きたかったんですが、次行った時の楽しみにとっておきました(笑)」とうれしそうに話してくれた。一時はやめてしまっていた編み物も再開し、色とりどりの毛糸で編まれたお花やフルーツが部屋の壁いっぱいに飾られている。
「ふさぎこんでいた時期は、もう編み物なんて二度とやることはない、と思っていたので、今本当に自分でもびっくりです」。
そして小宮さんはいいます。
「掃除機をかけたり料理を作ったり、お出かけをしたり…当たり前のことができることに本当に感謝しかありません。そして、また歩けるようになった今、まだまだ色んなことにチャレンジしたい気持ちでいっぱいです!」
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掲載日:2017年05月